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2008年8月号

「翻訳トーク」 2008年8月号のごあいさつ

この夏、出張からの帰りの便でテキサスのダラスからコロラドのデンバーに向かう機内で、私の隣に座った、年は60歳半ばの白人の方がいました。 出張中の睡眠不足を少しでも解消するためにと、通常、移動の機内では、ひたすら眠りにつくのが最近の私の習い性となっていましたが、この日も離陸からしばらくは、いつものようにウトウトとした状態に陥っていました。 機中では飲み物が運ばれてくるので、ただでさえ夏場は水分不足になりがちであるため、機内の超乾燥状態下での水分補給だけは逃しまいとして、そのときだけはパッチリ目を覚ますように心がけていました。

飲み物を受け取ったあとは、またウトウトしかけていた矢先に、隣の老紳士から話しかけられました。 その第一声は、”Where originally do you came from?” という質問でした。 私の答えは、もちろん ”Originally I came from Tokyo, Japan.” でありました。 そして彼は、ニッコリと微笑んで、”I am originally from Germany.” と言って、握手の手を差し出してくれました。 なるほど、そういわれてみれば、かつて日本とドイツは、同盟を結んで第二次世界大戦を戦った仲間であったというわけです。 そのような雰囲気を私は彼の微笑みと差し伸べられた握手の手から瞬時に感じ取ることが出来ました。

それから彼は私が尋ねもしないのに、自分の生い立ちをとうとうと話し始めました。 彼の話によると今はポーランドにある当時彼と彼の両親とが住んでいた故郷の地を戦後の荒廃と食糧事情の困難から逃れるようにして、着の身着のままでアメリカのテキサスに渡ってきたといいます。 当時それが1952年のことで、彼は10歳になったばかりだったといいます。 当時アメリカに着たばかりの頃、彼の両親は一言も英語がしゃべれなかったそうです。

しかしアメリカで生きていくには、英語がしゃべれなければ、仕事にもありつけないということを悟り、約2年間かけてほぼ完全に英語をマスターしたそうです。 しかしながら彼の両親は、息子である彼にドイツ語も家庭内で使ってくれていたため、彼もドイツ語は今もって自身の母国語として何ら不自由なく話すことが出来るのだと話してくれました。

彼は、両親が英語をマスターする中でどんなに苦労したかを知っているので、他国から来た人の英語にはセンシティブで、ちょっとしたアクセントの違いからどこの国(あるいは地域)から来た人であるのか大体分かるようになったというのです。 私の英語は、とても上手だと言って褒めてくれましたので、”Thank you. I think I live in the US long enough so that I can speak English relatively well.” と答えておきました。 彼と話している中で、”Green Horn” という英語のスラングなのですが、その言葉が瞬間的に私の脳裏の中を駆け巡りました。

“Green Horn”とは、日本語でいうと、「青二才」とか「新米」とかいう意味にあてはまりますが、もうひとつアメリカン・スラング独特の意味として、「外国から来たばかりの移民」の人を指していう言葉でもあります。 もともとの英語の語源は、ハンティングで山に鹿狩りに行ったときに、角の色が緑色をしている鹿を見つけたら、その鹿は、まだ成熟していない若い鹿なので、撃ってはいけないという一種の掟のようなものがハンターの間では言い継がれていました。 当時のアメリカでは、その言葉が転じて、移民として外国からアメリカに渡ってきたばかりの移住者に対して、比喩的に使われるようになったそうなのです。

19世紀後半ならびに20世紀前半に至るまで、多くの移住者がヨーロッパから、戦争や民族的・宗教的弾圧、さらに飢饉などを逃れてアメリカに移住してきました。 その代表的な人々は、19世紀には、アイルランド人が、そして20世紀になると、ユダヤ人が非常に多かったわけです。 特に20世紀前半のナチによる戦火と過酷な弾圧を逃れて、アメリカに渡ってきたほとんどのユダヤ人たちは、ヨーロッパにある主要言語を数ヶ国語不自由なく話せる人が少なくありませんでしたが、英語だけは、ほとんどの人がまったく話せなかったということです。 機内の私に隣に座った老紳士のご両親がまさにそうであったわけです。

戦前そして戦中にヨーロッパを捨てて新天地であるアメリカに渡ってきた人々は、必死の覚悟で英語の習得を始め、数年のうちには英語を家族内で完全にマスターしてしまったといいます。 その代わりといっては何ですが、多くの家族では、子供や孫たちに自分たちが持っていたヨーロッパの母国語を継承することをしませんでした。 機内の老紳士はその点、両親はきちんと彼にドイツ語を継承してくれたということですから、立派であったと思います。

アメリカ人の名前を聞くと、その人の家系は、ドイツ系であるとか、フランス系であるとかイタリア系であるとかの察しがつくものですが、今いる彼らは、ドイツ語やフランス語、イタリア語などは微塵だにも話すことが出来ません。 つまり、世代から世代への母国語としての言語の継承は、アメリカに渡ってきたときから、家族の中で途切れてしまったわけです。 それは、当時、皆一日でも早く“Green Horn” と呼ばれる段階から脱して、一人前のアメリカ市民として見られたいというものすごく熱烈なる願望が人々の底流にあったからにほかなりません。

恐らく、”Green Horn” という言葉自体、すでにアメリカ英語の中でも死語になっているのかもしれません。 少なくとも、「外国から来たばかりの移民」という意味は若い世代のアメリカ人には、すでにまったく馴染みのない使い方ではないかと思います。 逆に最近のアメリカでは、移住者であっても自分の母国語や自国の文化を子供や孫たちに家庭内できちんと継承していくことがとても価値のあることだとして、高く評価されるようになってきています。

一刻も早く ”Green Horn” からの状態を脱しなければならないという20世紀半ばまでの多くの移民が抱いていた切迫した感覚だけは、現在すっかり薄れてきているように思います。 それは、グローバル化が進み、戦火はまだこの地上からついぞ途絶えたことはないものの、以前と比べて相対的には、世界がより平和になってきたとい証左であるのかもしれません。 機内のドイツ系の老紳士との出会いは、忘れてしまいそうな戦争が引き起こした過去の出来事のいくつかをしばし思い出させてくれた、心に残る貴重なひと時であったと感じました。

 


Ken Sakai
President

kenfsakai@pacificdreams.org

   

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