「オープンマインドであること」
翻訳というものは、いまさらあらためていうまでもないことですが、書かれている言語の内容を他の言語に正確に移し変える作業をすることでありますから、その作業の途中で翻訳者自らのフィルターや思い込み、さらに固定観念を通じて、書かれている内容や筆者の使っている言葉遣いやトーンなどを変えてしまう自由や裁量は許されていないわけです。 翻訳に関して基本中の基本みたいなことを言っているわけなのですが、実は、無自覚的あるいは無意識的にご自分の持っているフィルターや思い込みを通してしまいますと翻訳しているそのときのご自身の感情やストレスレベルなどが翻訳の質や精度に関してどうしても影響を与えてしまうことになります。 やはり、翻訳者としてそれは何としても避けたいわけです。
私自身も文書の翻訳をゼロからすることが今でも時々ありますが、よい翻訳ができたときというのは、作者と同じ心の状態に立っていて、次にどのような論理やストーリーの展開が待ち受けているのかと、訳す前におおよその展開が予測ができるような、筆者と翻訳者とが限りなく一体感を味わえる、筆者に対して感情移入さえしている自分がいるといった、そのような状態を経験したときには、自分でも満足のいく翻訳に仕上がっているという成功事例になります。 逆に筆者と翻訳する自分との感情的な乖離が大きくなってしまっているときには、時間を要した割りには、なかなか納得の行く翻訳には仕上がらない、力ずくで翻訳をしたような感じになって、仕事の疲労感だけがいつまでも残るといった事態を経験することになります。
アメリカにいても日本にいても、私たちの言論は基本的には自由であって、さまざまな意見や持論の展開をすることが許されているわけですから、当然翻訳者は、心情の異なる作者が書いた文章を翻訳する機会が数多く出てまいります。 また仕事でありますので、一方的には翻訳者の意志だけで翻訳を受け付けなかったり、あるいは選択から外したりということにも限度があります。 すると自分ではこんな拙い書き方はしないだろうにとか、あまりにも抽象的過ぎていて要点がぜんぜん見えないなどというようなフィルトレーションや批判の目を最初からかけてしまうことは、翻訳者自らが、あえて筆者から遠ざかったり、背を向ける形で仕事をするということにつながりますので、当然筆者と翻訳者との間の心理的距離が広がってしまいます。
翻訳者が必要とされるスキルや能力に関して、以前にもこのコラムでリストアップした記事を書いたことがありましたが、初心に立ち返って再考し直してみますと、偏見を捨てて、オープンマインド、つまり心を開いて筆者の書いた文章に対峙することが非常に基本的なことですが、何よりも必要とされることではないかと最近またつくづく思い始めるようになりました。 翻訳者は、少なくとも筆者に対しては、フェアであり、謙虚であり、寛容であり、かつ柔軟性があり、そして願わくば賛同者であり、信奉者(少なくとも翻訳という仕事関係の中においてですが)であることが望ましいわけです。
このようなことを書くとテクニカル・マニュアルや法律文書の翻訳をご専門になさっている方々からは、専門的用語や技術的・法律的内容の正確な翻訳が生命線であるこれらの分野の翻訳に限って、そのような筆者との距離感やフィルトレーションを通すなどという次元の話は、適切ではない、あるいはお門違いのものではないかと今にも指摘を受けそうであります。 確かに精度の高い直訳をコアにして進めるのが基本である技術や法律の分野では、筆者への感情移入などというのは、通常起こらないことだといわれるかもしれませんが、それでも筆者が人間で、翻訳者も人間である以上、技術や法律内容の優劣、文章表現や記述における巧拙、さらに論理上での展開の仕方などで、翻訳者が無自覚のうちにファイルターをかけてしまうことがやはり起こりうるのではないかと思います。
翻訳という仕事をしていていつも素晴らしいと思えることは、自分の知らない未知の世界に扉が開かれている状況に遭遇させてもらえることにあるのではないかと考えています。 こちらから特に求めていたわけでもないのに、今までまったく縁のなかった分野や業界に急に近づけくことのできる機会が突然与えられます。 そのようなときに、翻訳する機会が与えられた幸運な者として、何はともあれ、オープンマインドで接することが何にもまして重要なのではないでしょうか。 その意味で翻訳者とは未知なる分野の探求者でもあり、言葉の熟達者でありますので、筆者には敬意を持って翻訳をこの自分が今からさせていただくのだという謙虚な姿勢がやはり筆者への距離感を短くする最初の道しるべとなるのではないかと考える次第です。
Ken Sakai
President
kenfsakai@pacificdreams.org
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